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近代以前で、中国は西洋以外で椅子の暮らしをしていた東アジアで唯一の国といわれています。 そして中国家具を考えるとき、この椅子の登場が重要なポイントになっています。 椅子の高さでの生活が中国家具を作っていったともいえるからです。 中国家具の歴史は遠く紀元前にさかのぼり、古墳や遺跡から発掘された石などに描かれた絵から、低い家具(台や肘置きなど)を用い、編んだマットの上で暮らす床レベルの生活様式をうかがい知ることができます。 紀元前500年、周の時代にすでに家具はミニマルな感性と装飾的な感性の両方が見られ、以後長い中国家具の歴史を通じて芸術性と実用性の融合は、綿々と受け継がれているのです。 紀元0〜2世紀ごろ漢の時代では、長方形の台座に座る様子が見られます。 これは後にcanopy bed(ボックス型ベッド)としても発達していきます。 大きく低い台座(床=chuang)は当時高官や高僧に用いられ、寝台としてだけでなく、日中もあらゆる場面(読書、接客、食事など)で利用されていました。 当時の家構造は間仕切りがなく屏風でしきる、レンガの床、中庭、格子窓などでした。 その後、中国では外国からの影響(仏教の伝来など)で椅子の発達が見られるようになります。 漢時代、すでに旅行や狩猟のための折りたたみスツール、そして南北朝時代(386−586AD)にはラタンのスツールも見られました。 唐の時代(618−907AD)、スツールと椅子は高い身分の人々の間で一般化してきます。 椅子は”高さ”の象徴であり、重要なステータスの誇示の手段としての意味をもっていました。 代表的な椅子”官帽椅”(York back chair)の原型もこのころから見られます。 大切な客は椅子に、女性は身分の低い者はスツールかベンチに座っている様子が記録に残っています。 また序列も決まっていて、最重要な位置は南に向かって太陽を見られるところなどとされていました。 10世紀前後から家具はインテリアの中で一層重要なコンポーネントとなり、椅子の登場とともに形も大きくなってきます。 宋の時代(960−1279AD)、航海技術や水路の発達とともに中国の経済的発達もめざましく、食料生産事情、貿易、流通の向上は都市を発展させただけでなく、人々の生活様式もおおいに変化させました。 そして、貨幣経済の発生と富は、ぜいたく品へのニーズを生み出し、家具作りを含む芸術へも大きく影響したといった背景があります。 たとえばカブリオレ(膨らんで湾曲した脚)のような家具の脚の装飾には、ガンダーラやギリシャ建築からの影響もうかがえます。 またこの時代、テーブルと椅子の生活が一般化して、食堂(レストラン)では共通の皿から箸で料理を取り分ける、現在の中華料理スタイルの原型も見られます。 さらに、料理は美しい磁器や銀器で供され、花や鉢植え、有名なアーティストのアンティークや絵まで飾られ、当時食堂はギャラリーでもありました。 当時の中国椅子は西洋のそれより高さが高いものです。 それは、冷たいレンガの床からの防寒として”足のせ台つき”かまたは”足のせ用スツール”を使うためでした。 そして、椅子の生活様式により家具は高く大きくなっていきます。 同時に家の構造も天井や窓が高くなっていきます。 窓は初めシルクなどはっていましたが、後、オイルペーパーになります。 格子の戸や透かし彫りの間仕切りは唐時代より見られましたが、椅子の発達とともに屏風形式は不便となり、壁が現れ、部屋が登場してきます。 また、椅子の生活で、外履きを屋内でも履いたままとなってきます。 宋時代に生まれた家具の基本形は元、明時代に美しく成熟していきます。 仕上げも滑らかに、漆は厚く、絵柄も繊細になります。 明時代と清時代初期には高級な木材(ハードウッド)で多くの家具が作られましたが、この素材によって、釘を使わないパズルのような見事なジョイント方法が発達し、一層優雅なフォルムを可能にしたのです。 最初、学者や高官の優雅な趣味を反映したこれらの家具の人気は、新興商人の間にも広まっていきました。 1644年明時代が終わりを告げ清になると、家具は多く、古いスタイルを受け継ぎつつより装飾的な方向へ向かいます。 中国家具の中でも、椅子の登場は、その座り方や足の下げ方で椅子自身やテーブルのサイズが決まり、壁の高さ、建築、果ては社会生活から食習慣まであらゆる面に影響してきました。 そして、高さの変化は、視線や精神性にも影響を与えました。 つまり椅子の高さは皇帝、高僧、高官など特権階級の権威の象徴となり、また富裕層の象徴でもあり、椅子は生活の新様式を表す新しい財産でもあったのです。 中国での床から椅子への生活様式の変化は、中国文化の歴史の重要ポイントであり、単なる生活様式の変化ではなく、文化的なあらゆる意味で彼らの世界観を変えてきたといえるでしょう。 * 中国と日本の対照歴史年表もご参考にしてください。 |
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バウハウススタイルのプレーンさ、ミニマリズム、ジオメトリックなラインと空間は、伝統的中国家具の理解に通じるところがあります。 装飾的なシノワズリーやヴィクトリアンスタイルなどを排し、欧米の建築、家具で突出しているバウハウスの様式は、中国家具のシンプルで洗練されたフォルムの素晴らしさに目を向けさせてくれます。 そして、両者には共鳴する点すら見られます。 (例: Marcel Breuer's "Wassily" armchair と 明スタイルの中国椅子) バウハウスの観点からすると、伝統的中国家具の芸術性にあらためて気づかされます。 バウハウスは20世紀初頭の原始回帰的芸術と古い建築への憧れの心を抱いている世界の動きを見事に捉えています。 それは、伝統的中国家具のテイストと一致していると考えられるのです。 ということは、中国伝統家具は、20世紀の西洋家具を予見したともいえるのですが、実際には18−19世紀の西洋では、あまり共感を抱かれませんでした。 西洋のコレクターが最初にひきつけられた中国家具は、装飾的漆家具と凝った彫りのもので、彼らはエキゾチズムからシノワズリーテイストに影響されていたのでした。 1940年ごろからプレーンなもの(明スタイル)と漆のもの(清スタイル)とが比較されるようになり、1944年、Gusutav Eckeの"Chinese Domestic Furniture"という本が出て初めて、シンプルなハードウッドの家具が注目されるようになったのです。 それは明スタイル中国家具として知られ、その後どんどん海外へと流出していきます。 つまり、現在のアンティーク中国家具の価値は、実は欧米でのバウハウス的土壌において発見されたとも言えるでしょう。 バウハウスの美学が、中国家具の認識を変え、特にその幾何学的ミニマルな部分の魅力を私達に教えてくれたのです。
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中国家具から広げて、中国そして日本の文化へと、シルクロードを通じて伝わってきた古代オリエント文明に目を向けてみました。 ■オリエント文明の発祥、ペルシャ文明〜アケメネス朝ペルシャ 今から約5500年前に興った人類最初の文明であるメソポタミア文明と、古代イランの都市文明とは表裏一体で盛んな交易がありました。 イランからメソポタミアには金属、木材、石材、貴石(例えばアフガニスタンを経てラピスラズリ)が運ばれ、メソポタミアから乾燥の地イランへは農産物の交易がありました。 その古代イランの都市文明から発展した前550年-前330年のアケメネス朝ペルシャは世界最古の帝国であり、古代オリエント文明の集大成であるといわれています。 アケメネス朝は、アフリカ一部からインダスまで及ぶ広大な領土でした。 それは多文化多言葉多民族を纏めた国際的な国であり、ペルシャ人が支配していました。 都ペルセポリスには壮麗な宮殿の遺跡が見られ、当時支配下の諸民族は頻繁に朝貢に訪れていました。 その帝国の成立には騎馬民族との接触と鉄器の採用が深く関わったと考えられます。 同じ頃東アジアでは、中国中原で、(夏)、商(殷)、西周の諸王朝は都市文明の段階でしたが、春秋戦国時代を経、秦漢時代に至って最初の帝国段階を迎えていました。 やはり、都市文明は農耕民族で、草原地帯は遊牧騎馬民族の支配でした。 ■アレクサンドロスの東征〜ササン朝ペルシャ やがて、ギリシャのアレクサンドロスの東征によりアケメネス朝ペルシャ帝国は終焉を迎えます。 アレクサンドロスの死後、セレウコス朝シリア、アルサケス朝パルティアによって支配されましたが、ギリシャ的文化が移植され、ヘレニズム文化が受容されました。 また、ペルシャ的要素と融合することで、グレコ・イラン式、パルティア後期にはパルティア様式など独特なスタイルが誕生します。 226年、ササン朝ペルシャが誕生しました。 このころ、(東)ローマ、ササン朝ペルシャ、隋・唐が、中世ユーラシアの3大帝国として並立する時代が訪れます。 ササン朝はローマ帝国と争いを続けますが、非ヘレニズムであり、ペルシャ的伝統が復活します。 その美術や文化は、このころ開かれた極東と地中海を陸海で結ぶ東西交易路「シルクロード」を経て、唐や奈良の都にまで影響を与えました。 ■シルクロードから中国、そして日本へ ササン朝の美術や文化は、シルクロードを経て唐時代の中国へ伝えられました。 「胡風」(ペルシャ・スタイル)は唐美術へ大きな影響を与えました。 そのころの国際都市長安では、胡瓶(水差し)、胡楽、胡酒(ワイン)などが愛好されましたが、現在の中国には胡風文物はあまり残っていないそうで、これはとても残念なことだと思います。 「胡」という文字は中国から見て西の地域つまりペルシャなどのものに使われるそうです。(胡椒、胡麻、胡瓜なども。) しかしそれらの素晴らしい美術工芸品は、日本では奈良・東大寺正倉院に多く宝物として残っています。 例えば、ガラス製の「白瑠璃碗」(ペルシャ・円形切子碗)は明らかにイラン製で、ササン朝の工芸品がはるばる日本まで到達していたことを示しています。 しかも驚くことにそれが千年以上の時を越えて、校倉(あぜくら)の中に丁重に保管されてきたのです。 その保管のおかげで破損を免れ、土中で埋もれたり変質することもなく、天平文化の国際性を当時そのままに伝えているのです。 伝えられた工芸品の中でガラス製品と並んでササン朝美術を代表するものに、銀製の皿があります。 部分的に鍍金を施した華やかな器は、中国の工芸、日本の貴族社会に大きな影響を及ぼしました。 「鍍金銀製帝王狩猟文皿」など。 さらには、美術工芸品だけでなく文化としてもイスラム教の根付く前のペルシャ国教ゾロアスター教の影響が見られるものがあります。 たとえば日本でのお盆の「迎え火」や東大寺二月堂の「お水とり(修二会)」など宗教行事における「火」や「牛」の重用です。 またゾロアスター教の最高神「アフラ・マズダー神」は仏教の「阿修羅」に対応するとも言われます。 ■仏教文化への影響 オリエント文明が東西交流により仏教文化へ多大な影響を与えたことは、中国そして日本へ間接的にも文化的影響を与えたことにつながります。 実際、オリエント文明が伝わるようになって、技術的な面に加え美術的芸術的な美しさ、奥深さが文物に加わってきたと考えられます。 素材の進化、造形の美しさだけでなく、文様などのデザインにも幅が加わったといえるでしょう。 唐草模様なども伝えられたものと思われますし、連続柄である雷紋(中華どんぶりでお目にかかります。)も、遠くギリシャで古くからある「Greek Key Pattern(グリーク・キー・パターン)」と呼ばれるとても似た文様から伝わったという説もあるようです。 イタリアのブランド、ベルサーチェが多用しているのでも知られるデザインです。 また、フランスの凱旋門上部を見上げたときにも、この雷紋そっくりの「グリーク・キー・パターン」が見られました。 このパターンは、魔除けの意味があるとのことですが、その点でも雷紋と共通しているようです。 断片的ではあれ、このように見てきますと、先に芸術的に発達した遠い文明が、中国や日本など東アジアの美の創造に気付かぬところまで浸透していて重要な役割を演じてきたのだと、あらためて気付かされます。 悠久の時間の向こうに遥かな距離を越えて文化が行き来していたのを感じる瞬間は、不思議であり感慨深いものがあります。 (参考: 朝日新聞社ペルシャ文明展煌く7000年の至宝図録etc.) |
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